ログイン少女が「十三」と数えた直後、東棟の照明がすべて消えた。
暗闇は一瞬だった。
それでも澪には、その短いあいだに誰かが階段を一段上ったように聞こえた。
こつ。
硬い上履きの底が、木の踏み板へ触れる音。
続いて蛍光灯が白く明滅した。
十二段しかないはずの階段の最上部に、もう一段増えていた。
「……何、あれ」
奈々香が美月の袖を握る。
誰も答えなかった。
澪は階段を見上げた。
一階から踊り場まで、十二段。
八年前にも上った。今夜も何度も通った。幅の狭い古い階段で、七段目だけ踏むと軋む。十一段目には大きな欠けがあり、十二段目を越えれば踊り場へ出る。
その十二段目の上に、見覚えのない黒い踏み板があった。
十三段目。
しかも、その先に廊下が続いている。
三階へ上がる階段ではない。
踊り場の壁がなくなり、さらに上の階へ向かう長い廊下が伸びていた。
薄暗い窓。
左右へ並ぶ教室の扉。
天井から垂れる蛍光灯。
突き当たりの壁だけが、霧の中へ溶けるように見えない。
「四階……?」
美月が呟く。
「ない」
悠斗が即座に否定した。
声がひどく乾いている。
「この校舎は三階建てだ」
「図面にも?」
澪が訊く。
「ない。屋上の設備室ならあるが、人が歩ける階じゃない」
朔は階段へ近づかず、小型カメラを構えた。
「全員、その場から動くな」
液晶に十三段目と四階らしき廊下が映っている。
今度は、カメラにも存在していた。
朔は角度を変えた。
正面から。
壁際から。
床近くから。
どの角度でも、十三段目はある。
突然、照明が消えた。
「動かないで!」
美月の声。
数秒後、明かりが戻る。
十三段目は消えていた。
その先の四階もない。
十二段目の先には、いつもの踊り場の壁がある。
奈々香が息を呑む。
「今、なかった」
「ああ」
朔はカメラを確認する。
「映像からも消えてる」
また照明が瞬いた。
一度暗くなる。
白い光が戻る。
十三段目。
四階。
存在する。
照明の明滅に合わせ、建物そのものが形を変えているようだった。
澪のスマートフォンが震えた。
続いて四人の端末も同時に鳴る。
七つの学校章。
赤く塗られているのは三つ。
七人目の出席。
校歌。
姿見。
その下へ新しい文章が表示された。
十三段目に番号札を返してください。
落とした人が拾ってください。全員の視線が、悠斗へ向いた。
彼は動かなかった。
雨具の内ポケットへ手を置いたまま、十三段目を見ている。
「番号札って」
奈々香が言いかける。
悠斗はゆっくりポケットから透明な袋を取り出した。
二年七組へ入る前。
門前の木箱に収められていた真鍮製の札。
暗い金属面へ、数字が一つ刻まれている。
13。
澪は以前、教室番号だと思っていた。
だが改めて見ると、札には「三年二組」などの文字はない。
数字だけだった。
「それ、階段のだったの?」
美月が訊く。
悠斗は答えない。
「悠斗」
「……八年前、ここから外した」
手袋越しに札を握る指が震えている。
「階段の側面についてた。十三って数字だけが書いてあった」
「十二段しかないのに?」
「だから持って帰った」
悠斗は自嘲するように口元を歪めた。
「馬鹿だったんだよ。七不思議を証明する物になると思った。学校には十二段しかないのに、十三の札がある。部室に飾って、動画にも使えるって」
美月の表情が険しくなる。
「それも警察に話してないの?」
「事件のあとには、もうなかった」
「質問に答えて」
「話してない!」
悠斗が声を上げた。
階段の奥へ反響する。
「澄花が消えて、血が見つかって、それどころじゃなかった。そもそも俺は、あの夜の途中で札をなくしてる」
「持って帰ったのは認める。でも、校舎を出る前に落とした?」
朔が確認する。
「そうだ」
「どこで」
「覚えてない」
奈々香が小さく首を振った。
「またそれ」
「本当に覚えてないんだ!」
悠斗の声が荒れる。
「ポケットに入れてた。気づいたら消えてた。それだけだ」
澪は十三の札を見つめた。
八年前。
悠斗が何か金属を掌で弄んでいた記憶がある。
かち、かち、と指で弾く音。
澄花がそれを見て、ひどく嫌そうな顔をした。
『戻した方がいいよ』
『たかが番号札だろ』
そんな会話を聞いた気がした。
だが、その後が思い出せない。
「澄花に注意されなかった?」
澪が尋ねた。
悠斗の顔が僅かに動いた。
「何で」
「戻せって」
「……言われたかもしれない」
「そのとき、どこにいた?」
「覚えてないって言ってるだろ」
言葉は強い。
けれど、悠斗は澪を見なかった。
照明がまた消える。
今度は暗闇の中で、少女の歌声がした。
低い。
子守歌のような旋律。
一音だけで途切れる。
照明が戻る。
十三段目。
そして四階の廊下。
その入口に、制服姿の少女が立っていた。
澪は息を止めた。
澄花。
八年前の姿。
こちらへ背を向けている。
長い黒髪。
制服のスカート。
右手首へ赤い組紐。
「見える?」
澪が訊く。
「何が」
奈々香が震える。
「廊下の入口に、澄花が」
「私は見えない」
美月も首を振る。
悠斗だけが、顔を強張らせていた。
「……いる」
澪が彼を見る。
「悠斗にも?」
「見える」
朔はカメラを向ける。
液晶には四階の廊下だけが映っている。
少女はいない。
「俺には見えない」
朔が言った。
澪と悠斗だけ。
二人が見ている。
澄花はゆっくり歩き始めた。
四階の奥へ。
足元は濡れているはずなのに、足音はしない。
彼女が通り過ぎた教室の扉に、古い札が掛かっていた。
理科準備室。
「待て」
悠斗が一歩踏み出した。
朔が肩を掴む。
「行くな」
「あそこに澄花がいる」
「見えてるだけだ」
「理科準備室へ行く!」
「四階は存在しない」
朔は悠斗の肩を強く押さえた。
「まず階段を調べる」
「時間がない!」
「何の時間だ」
悠斗が答えに詰まった。
澪はその横顔を見た。
焦り方が異常だった。
澄花へ追いつかなければならない。
彼にはそう見えている。
八年前にも、同じことがあったのだろうか。
「悠斗」
澪が呼ぶ。
彼の視線は四階へ固定されたままだ。
「澄花、何か持ってる?」
「黒い袋」
澪の胸が冷えた。
返し雛。
澄花は黒い布袋を抱えたまま、遠ざかっている。
「俺が行く」
悠斗が言った。
「一人では行かせない」
朔は機材鞄から細いロープを出した。
撮影時の高所作業に使う補助用らしく、悠斗の腰へ二重に回す。
「何するんだ」
「十二段目より上へ行くなら、これをつけろ」
「邪魔だ」
「嫌なら上がるな」
朔の声は静かだった。
悠斗は歯を食いしばったが、ロープを外さなかった。
朔は反対側を階段の太い手摺へ一度巻き、自分の腰へ固定する。美月も途中を支えた。
「足元だけを確認して進め」
「分かってる」
「何が見えても走るな」
悠斗は一段目へ足を置いた。
一。
二。
階段が軋む。
三。
四。
五。
七段目で、記憶通りの大きな軋み。
悠斗は止まらない。
九。
十。
十一。
十二。
最後の踏み板へ立つ。
その上に十三段目がある。
黒く、濡れたように光っている。
澪には澄花が四階の奥で一度だけ振り返ったように見えた。
顔は暗く、表情は分からない。
「悠斗、そこで止まって」
美月が叫ぶ。
悠斗の右足が十三段目へ伸びる。
靴底が触れた。
照明が消えた。
闇。
澪はロープが強く引かれる音を聞いた。
「朔!」
「持ってる!」
非常灯すら消えた暗闇で、ロープだけが張る。
照明が戻った。
悠斗は十三段目に立っていた。
五人の位置からは、一段だけ高い場所にいる。
だが悠斗本人の顔は、まるで別の景色を見上げていた。
「廊下だ」
「動くな!」
朔が叫ぶ。
「本当にある。四階だ。澄花がいる」
悠斗は聞いていない。
「待て!」
その声は澪たちではなく、四階の澄花へ向けられていた。
「澄花!」
少女が理科準備室の扉へ手を掛ける。
悠斗が十三段目からさらに踏み出そうとした。
足元の踏み板が開いた。
「悠斗!」
美月の悲鳴。
十三段目が中央から下へ落ち込む。
悠斗の身体が一瞬で消えた。
腰のロープが張り、朔が後方へ引かれる。
澪と美月が反射的に朔の身体を掴んだ。
「引け!」
朔が叫ぶ。
三人でロープを引く。
空洞の中から、悠斗が手摺へぶつかる音。
「腕!」
悠斗の手が穴の縁へ現れる。
爪が木板を掴む。
朔がロープを引き上げ、美月が悠斗の手首を掴んだ。
澪も腕を伸ばす。
三人で引き、悠斗を十二段目へ引き戻した。
彼は階段へ仰向けに倒れ、荒い息を繰り返した。
顔面から血の気が失われている。
「下……」
掠れた声。
「底が見えなかった」
澪が懐中電灯を穴へ向ける。
階段の下に、深い空洞が開いていた。
通常の床下ではない。
設備管理用の縦穴らしく、金属製の配管や古いケーブルが暗闇へ伸びている。
光は数メートル先までしか届かない。
落ちれば。
助からない。
「十三段目じゃない」
朔は呼吸を整えながら立ち上がった。
「踏み板だ」
側面へ光を当てる。
可動式の木板。
普段は階段下へ収納され、必要なときだけ上方へせり出す構造になっている。
新しい金属製の支持具。
小型の電動アクチュエーター。
さらに、壁際へ小さな黒い受信機が固定されていた。
「遠隔で出せる」
美月がしゃがむ。
「これも最近つけたもの?」
「ああ」
朔は装置の配線を確認する。
「元の点検用床を改造してる。踏み板を出す。一定以上の荷重が掛かったら、支持を外して下へ落とす」
「四階は?」
奈々香が訊く。
朔は上を照らした。
踊り場の壁へ、薄い半透明幕が下りていた。
普段は天井内へ巻き上げられている。
その上方。
梁の裏に小型投影機がある。
「映像だ」
悠斗がゆっくり起き上がった。
手が震えている。
「澄花も?」
朔は答えなかった。
澪には見えていた。
朔のカメラには映らなかった。
「廊下は投影できる」
朔は言葉を選んだ。
「少女の映像については、まだ分からない」
悠斗は掌の中にある真鍮札を見た。
13。
さっき落ちかけたときも、離さなかったらしい。
「返せって……どこに」
可動板の側面に、小さなくぼみがあった。
札と同じ形。
美月が気づく。
「そこじゃない?」
悠斗は座り込んだまま動かなかった。
指の間で札が震える。
「八年前に、俺がこれを取ったから?」
「今は理由を考えなくていい」
朔が言う。
「戻せるなら戻せ」
「また動いたら」
「ロープはつけたままにする」
悠斗は立ち上がった。
今度は十三段目へ乗らない。
十二段目へ膝をつき、身体を低くする。
朔が腰のロープを短く持つ。
悠斗は腕だけを伸ばした。
真鍮札をくぼみへ近づける。
かちり。
吸いつくようにはまった。
その瞬間、可動板が静止した。
投影されていた四階の廊下が薄くなる。
澄花の姿も消えた。
壁へ赤い文字が浮かび上がる。
黒板も、投影幕もない。
湿ったコンクリートの上へ、内側から血が滲むように文字が現れた。
四つ目
十三段目 終了五人のスマートフォンが震えた。
七つの学校章。
四つ目が赤く染まる。
奈々香が深く息を吐いた。
「終わった……」
誰も返事をしなかった。
階段の可動板はゆっくり収納され、十三段目は消えた。
十二段。
元の階段へ戻る。
朔は悠斗の腰からロープを外そうとした。
そのとき。
空洞の底から音がした。
きい。
金属へ硬いものを擦りつける音。
全員が止まる。
きい。
きい。
爪で、金属板を引っ掻いている。
深い場所から。
ゆっくり。
何度も。
「設備の音じゃないよね」
奈々香が囁いた。
朔は答えず、懐中電灯を穴へ向ける。
暗闇。
配管。
切れた電線。
人影はない。
きい。
また鳴った。
今度は少し上から。
空洞の中を、何かが登ってきている。
美月が一歩下がる。
「誰かいるの?」
返事はない。
澪は耳を澄ませた。
金属を掻く音の合間に、呼吸が混ざっている。
浅い。
苦しそうな息。
ひゅう。
ひゅう。
透が死ぬ直前に聞いたものと似ていた。
朔が空洞へ声を落とす。
「誰かいるなら返事をしろ」
数秒の沈黙。
底の方で、何かが止まる。
そして。
少女でも男でもない、掠れた声が暗闇から返ってきた。
「……上げて」
三階女子トイレには、三つしか個室がなかった。 八年前も同じだった。 澪は入口に立ったまま、右から順番に扉を数えた。 一つ。 二つ。 三つ。 薄い水色の扉はどれも塗装が剥げ、下端には湿気で膨らんだ木が黒く浮いている。床の白いタイルはところどころ割れ、洗面台の蛇口には赤錆が厚くこびりついていた。 五つ目の印が示した場所。 三階女子トイレ、四番目の個室。 だが、どれほど見ても四つ目はない。「間違ってるんじゃないの」 奈々香が入口から動かずに言った。 声には期待が混じっていた。「四番目なんてない。これなら、行き先そのものが嘘だったってことでしょ」 誰もすぐには答えなかった。 奥の小窓から雨の青白い光が差し込んでいる。天井灯は死んでおり、五人の懐中電灯だけが便器の白や配管の錆を拾っていた。 美月が三つの個室を一つずつ開く。 一番目。 空。 二番目。 便座が外され、床へ転がっている。 三番目。 天井から蜘蛛の巣が垂れているだけ。「壁の奥に設備室がある可能性は?」 美月が尋ねる。 悠斗が通路図を広げた。「女子トイレの裏は配管スペース。さっきの管理通路とつながってる。ただ、ここから直接入れる入口は載ってない」「載っていない入口ばかりだな」 朔が壁を照らす。 そのとき、澪は入口脇の鏡を見た。 長い洗面台の上に設置された横長の鏡。 表面は黒い斑点に侵され、中央には縦へ亀裂が走っている。 鏡の中に、四つの扉が映っていた。 澪は呼吸を止めた。「……ある」「何が?」 美月が振り返る。「鏡」 澪は指を向ける。「四つある」 全員が鏡を見た。 現実の背後には三つ。 鏡の中には四つ。 三番目の右隣。 本来なら灰色の壁しかない場所に、もう一枚、薄い水色の扉が立っている。 表面には黒い数字で〈4〉。 奈々香の顔色が変わった。「いや」 短い声だった。 壁へ背をつける。「奈々香?」「そこ……」 鏡の四番目の扉を見たまま、奈々香の唇が震える。「八年前も、あった」 悠斗が彼女を見る。「四つ目が?」「見えたわけじゃない。でも、澄花が言ってた」 奈々香は左耳に残ったガーゼへ触れた。「四つ目があるって。私、馬鹿にした。三つしかないじゃんって」 記憶が戻ったのか、声が次第に細くなる。「それから……
「……上げて」 掠れた声は、階段下の暗闇から聞こえた。 男とも女とも判別できない。喉を潰した人間が、長いあいだ声を出さずにいたあと、無理に息を押し出したような音だった。 五人は動かなかった。 朔が十二段目へ膝をつき、懐中電灯を空洞へ向ける。 白い光が、壁面をゆっくり滑った。 深さは五メートルほど。 底には使われなくなった机や椅子が乱雑に積まれていた。錆びた金属脚が絡み合い、崩れた木製の天板が斜めに立っている。古い配管が壁に沿って下り、底には雨水らしい黒い水が薄く溜まっていた。 人影はない。「誰かいるのか!」 悠斗が叫んだ。 返事はなかった。 先ほどまで聞こえていた爪の音さえ消えている。「空耳……?」 奈々香が美月の腕を掴んだ。「五人とも聞いた」 美月は空洞から目を離さない。「少なくとも、私には聞こえた」 澪も頷きかけた。 そのとき。 朽ちた椅子の隙間で、白いものが動いた。 細い指。 血の気のない小さな手が、折れた机の陰から一瞬だけ伸びたように見えた。「待って」 澪が一歩前へ出る。「今、手が」「何?」「下に誰かいる」 朔が光を戻す。 椅子の隙間。 何もない。「澪、離れて」 美月が肩へ触れた。「人がいるなら救助が必要。でも、まず安全を確認する。五メートルはある。下の床が抜けている可能性も――」「私が下りる」「駄目」「誰かがいるかもしれない」「だからこそ一人では下りない」 美月は強く言った。「さっき悠斗が落ちかけたばかりでしょう」 澪は空洞を見下ろした。 声。 白い手。 そして、耳の奥に蘇る八年前の澄花。『澪ちゃん。開けて』 助けを求める声を聞いた。 それなのに逃げた。 今度も同じことをしたら。「途中まででいい」 澪は朔を見る。「ロープをつけて。何かあったらすぐ引き上げて」「俺が行く」「朔じゃ駄目」「理由は」「私が見たから」 澪の声が僅かに震えた。「白い手を見たのは私。もしまた、私にしか見えてないものなら……私が確かめる」 朔は数秒黙った。 反対したのは美月だった。「危険すぎる」「でも、人がいるなら」「救助する側まで落ちたら意味がない」「分かってる」 澪は自分の腰へ手を当てた。「だからロープを使う」 朔は空洞と澪を交互に見た。 やがて、悠斗
少女が「十三」と数えた直後、東棟の照明がすべて消えた。 暗闇は一瞬だった。 それでも澪には、その短いあいだに誰かが階段を一段上ったように聞こえた。 こつ。 硬い上履きの底が、木の踏み板へ触れる音。 続いて蛍光灯が白く明滅した。 十二段しかないはずの階段の最上部に、もう一段増えていた。「……何、あれ」 奈々香が美月の袖を握る。 誰も答えなかった。 澪は階段を見上げた。 一階から踊り場まで、十二段。 八年前にも上った。今夜も何度も通った。幅の狭い古い階段で、七段目だけ踏むと軋む。十一段目には大きな欠けがあり、十二段目を越えれば踊り場へ出る。 その十二段目の上に、見覚えのない黒い踏み板があった。 十三段目。 しかも、その先に廊下が続いている。 三階へ上がる階段ではない。 踊り場の壁がなくなり、さらに上の階へ向かう長い廊下が伸びていた。 薄暗い窓。 左右へ並ぶ教室の扉。 天井から垂れる蛍光灯。 突き当たりの壁だけが、霧の中へ溶けるように見えない。「四階……?」 美月が呟く。「ない」 悠斗が即座に否定した。 声がひどく乾いている。「この校舎は三階建てだ」「図面にも?」 澪が訊く。「ない。屋上の設備室ならあるが、人が歩ける階じゃない」 朔は階段へ近づかず、小型カメラを構えた。「全員、その場から動くな」 液晶に十三段目と四階らしき廊下が映っている。 今度は、カメラにも存在していた。 朔は角度を変えた。 正面から。 壁際から。 床近くから。 どの角度でも、十三段目はある。 突然、照明が消えた。「動かないで!」 美月の声。 数秒後、明かりが戻る。 十三段目は消えていた。 その先の四階もない。 十二段目の先には、いつもの踊り場の壁がある。 奈々香が息を呑む。「今、なかった」「ああ」 朔はカメラを確認する。「映像からも消えてる」 また照明が瞬いた。 一度暗くなる。 白い光が戻る。 十三段目。 四階。 存在する。 照明の明滅に合わせ、建物そのものが形を変えているようだった。 澪のスマートフォンが震えた。 続いて四人の端末も同時に鳴る。 七つの学校章。 赤く塗られているのは三つ。 七人目の出席。 校歌。 姿見。 その下へ新しい文章が表示された。 十三段目に
東棟の階段から響いた重い音は、十三度目で止まった。 どん、と最後の一音が校舎の底へ沈み、そのあとには非常ベルだけが残った。 赤い警告灯が明滅するたび、割れた鏡の破片が床の上で光る。つい先ほどまで、その一枚には透の姿が映っていた。 階段へ行くな。 死んだ透の唇は、確かにそう動いていた。「行かない」 澪が言った。 自分でも驚くほど強い声だった。 悠斗が東棟へ続く扉を見た。「でも、今の音を確認しないと――」「透が行くなって言った」「鏡に映ったものを信用するのか?」「今は、何も確認できてないまま近づく方が危ない」 美月も澪の隣へ立った。「賛成。さっきのは人が階段から落ちた音にも聞こえた。でも、本当に人なら声くらい出てもおかしくない。先にここで分かることを調べる」 奈々香は返事もしなかった。左耳に当てたガーゼを押さえ、割れた鏡を見ないよう俯いている。 朔だけは非常ベルの周期を数えていた。 やがて胸元へ固定した小型カメラを外す。「舞踊室の映像を見る」 悠斗が苛立ったように振り返った。「今?」「今だからだ。俺たちが見たものと、記録されたものが一致してるか確認する」 その言葉に、澪の胸元で手帳が重くなった。 中には、澄花の字で書かれた楽譜が挟まれている。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 その一文を、澪はまだ誰にも見せていない。 朔は床へ膝をつき、カメラの液晶を開いた。 五人が横一列に並ぶところから映像を戻す。 一往復目。 五人。 二往復目。 五人。 澪たちの記憶では、鏡の中の悠斗だけが半歩遅れた。 だが保存映像では、悠斗もほかの四人と同じ速さで動いている。「違う」 澪が画面へ顔を近づけた。「ここ。悠斗が遅れたはず」「遅れてないな」 美月も確認する。 三往復目。 現実では、鏡の中の奈々香が一人だけ立ち止まった。 映像の中では、五人全員が同じ歩調で端まで進んでいる。「私、止まってたよね」 奈々香が掠れた声を出した。「鏡の中の私だけ。みんな見たよね」「見た」 澪が答える。 美月も頷いた。 四往復目。 澪の呼吸が浅くなる。 このとき、鏡の中には六人いた。 五人の後ろを、制服姿の少女が歩いていた。 右手首には赤い組紐。 けれど、小型カメラの映像には五人しか
西棟一階へ近づくにつれ、雨音が遠くなった。 代わりに、五人の足音だけが長い廊下へ乾いて響く。 東棟よりも荒廃が進んでいるらしく、天井には幾つもの穴が開き、壁紙は湿気を吸って垂れ下がっていた。窓硝子の半分は割れ、黒い板で塞がれている。 それでも、突き当たりにある両開きの扉だけは、不自然なほど形を保っていた。 曇った金属板へ、かすれた文字が残っている。 舞踊室。「ここ……」 奈々香が足を止めた。「覚えてる」 声は小さい。 左耳には美月が当てた薄いガーゼが残っていた。出血は止まっているが、何度も耳へ指を伸ばしかけては、途中で思い直して腕を下ろしている。「八年前に来たよね」「来た」 悠斗が答えた。 迷いのない声だった。「ここの鏡が七不思議の一つだった」 朔は扉の前でしゃがみ、下部へ懐中電灯を向けた。 細い隙間から、埃の積もった床が見える。 糸や配線はない。「どんな噂だった?」 美月が悠斗へ尋ねる。 悠斗は扉の取っ手へ手を掛けながら言った。「午前零時を過ぎて、鏡の前を全員で歩く」 低い軋みとともに扉が開く。「最後の一人だけ、鏡の中に残される」 舞踊室の暗闇が現れた。「残った奴は、翌朝までに消える」 澪の背中を冷たいものが走った。 部屋は細長かった。 奥行きのある長方形で、床には古い木板が敷かれている。壁際には朽ちた手摺が残り、その上を白い黴が這っていた。 そして、左側の壁一面。 端から端まで、巨大な鏡で覆われている。 幾つもの鏡板を並べて作られたものだった。 表面はところどころ黒く曇り、細かなひびも入っている。それでも五人の姿を映すには十分だった。 澪。 朔。 美月。 悠斗。 奈々香。 五人。 鏡の中にも五人。 赤い組紐の入った袋が、澪のポケットの中で僅かに冷たくなった。「当時は何も起きなかった」 悠斗が部屋へ入りながら言った。「澄花がふざけて隠れただけだった」 澪は顔を上げた。「隠れた?」「ああ」「ここで?」「そうだ」 悠斗は当然のことのように答える。「七人で鏡の前を歩いて、最後に数えたら六人しかいなかった。奈々香が泣いて、美月が怒って。あとで澄花が裏から出てきた」「裏って、どこ」「カーテンの向こうか何かだっただろ」 澪は舞踊室を見回した。 壁際にカーテンはない
最後の鍵盤が沈んだまま、戻らなかった。 音楽室の中には、逆向きに流れる少女たちの歌声だけが残っている。 声は天井のスピーカーから降っているはずなのに、澪には壁の内側や床の下、閉ざされた楽器棚の奥からも聞こえた。吸い込まれるような発音。終わった言葉から始まり、息継ぎまで逆へ流れていく。 五人は誰も耳を塞がなかった。 スマートフォンに届いた指示が頭から離れない。 途中で耳を塞いだ人は帰れません。 たとえ人間が作った脅しだとしても、透が死んだあとでは試す気になれなかった。 奈々香は両腕を身体の脇へ押しつけるようにして立っている。耳を塞がない代わりに、指先がレインコートの布を強く掴んでいた。「何か入ってる」 朔が言った。 胸元の小型カメラを外し、録音状態を確認している。「歌以外に?」 美月が問う。「低い声。普通に聞くと潰れてる」 朔はカメラから音声だけを端末へ送り、波形を表示した。 透ほど専門的な機材ではない。それでも映像制作の現場で使う程度の処理はできるらしく、朔は周波数を分け、歌声の高い帯域を少しずつ削っていく。 少女たちの声が薄くなる。 その下から、ざらついた息のようなものが現れた。「逆向きだから分かりにくい」 朔の指が画面を滑る。「戻す」 再生方向を反転させる。 さっきまで喉へ吸い込まれていた声が、今度は自然な歌になった。 古い校歌。 少女たちの合唱。 八年前に澪が廊下で聞いたものと同じだった。 胸の奥がざわつく。 窓の外では雨が降り続いている。楽譜の散らばる床を湿気が這い、腐りかけた木材の匂いへ、古いピアノの塗料と錆の臭いが混ざっていた。 歌声の下に、別の声があった。 小さい。 ひどく近い。『鏡を見て』 澪の肩が強張る。 朔が音量を上げる。『本当の人数は、鏡に映る』 音声が途切れた。 五人は同時に、音楽室の奥を見た。 壁際に、大きな姿見が立っていた。 澪は先ほどまで意識していなかった。 高さは一メートル半ほど。木製の枠は黒ずみ、上部の装飾が半分欠けている。鏡面には斜めへ大きな亀裂が走り、蜘蛛の巣状の細い割れが右下へ広がっていた。「こんなの、あった?」 奈々香が囁く。「最初からあった」 悠斗が答える。「入ったとき、壁際に見えた」「私は見てない」「見てないだけだろ」 奈々